3月9日飛行機で羽田に向かう。
快晴で雲はほとんどなく、地図を見ているようにはっきりと日本列島が見えた。
緑もいっぱい、海も真っ青。
日本もまだまだ捨てたもんじゃない!と思った矢先であった・・・・。
今、内田樹の「邪悪なものの鎮め方」という本を読んでいる。(「日本辺境論」お薦めです)
その中で、「父」について書いてあった文章がとても気になった。
「父」といってもいわゆるお父さんではない。(以下抜粋)
「神」「天」「絶対精神」・・・「王」「預言者」、世界の秩序を制定し、すべての意味を確定する最終的な ・・・・である。 なぜ、私たちは「父」を要請するのか。 それは、私たちが「世界には秩序の制定者などいない」という「真実」に容易には耐えることができな いからである。(中略) ほとんどの人は、これからどうするかを決めるとき、あるいはすでに何かをしてしまった後に、 その理由を説明するために、「父」を呼び出す。(中略) それは弱い人間にとってはある種の救いである。 世界は「父」を呼び出すことで一気に合理的になり、さまざまなものが名づけられ、 混乱は整序される。けれども、そのようにして繰り返し自己都合で「父」を呼び出すうちに 「父=システム」はゆっくりと巨大化し、遍在化し、全知全能のものとなり、ついには 人間たちを細部に至るまで支配し始める。 だから、論理的に考えれば、「父」の増殖を止めるための言葉は次のようなものになる他ない。 私が今あるような人間になったことについて私は誰にもその責任を求めない。 その言葉を発見した人間だけに「父の支配」から逃れるチャンスが訪れる。 「私は哲学者ではありません。私は理性もシステムも十分には信じていません。私が知りたいのは どうふるまうべきかです。より厳密に言えば、神も理性も信じてないでなお、どのようにふるまい得る かを知りたいです。」 アルベール・カミユ 田舎に暮らし、自然と隣合せ(ていうか障子を開けると自然!)にいると
日々神の存在を感じずにはいられない。
人間も雄大なる自然の一部として静かに暮らしたいと思う。
天災も「人間の力なんて自然に比べたら取るに足らない」
ことを思い知らせてくれるものと受け止めよう。
しかし今回の人災を、「神意である」「神に許しを・・・」で済ませてしまうのはあんまりだと思う。
毎日正午に、おてんとう様に向かって祈ることにしている。
別に「父」にお願いや許しを乞う為ではない。
思いは力である、と信じているから。
双名島