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    戦後70年 その1

    • 2015.02.12 Thursday
    • 18:01
    町の広報では8月まで戦争特集、学童疎開のことで記事を書いた。

     

        戦後70年  〜母の記憶〜   

    「わたしが長野に疎開していたときにね・・・・。」昔から時々聞かされていた話だ。

    お正月に母のところに帰った折に、詳しく話を聞くことにした。

    *「学童疎開」 政府は、空襲による被害を少なくするために、都市部に住む子どもたちを周辺の農村部などに疎開させました。これを学童疎開といいます。まず、知り合いや親戚縁故疎開め、縁故疎開できない子どもたちには集団疎開をさせました。

    母はその当時6年生で3つ下の弟と一緒に長野の別所温泉に疎開した。

    学校単位で疎開用に多少手直した旅館に寝泊りし、朝食後学年ごとに別の旅館に勉強しに行く、というのが日課であった。食事はたいてい大豆入り麦ご飯と汁、ひもじくて畑から野菜を盗んで食べる子もいたという。1度は男の子数人が脱走して先生が捜索、碓氷峠で見つかったこともあった。

    母は結局6年生の8月から翌年3月まで長野にいて、東京大空襲直後に進学のため東京に戻った。

    *「東京大空襲」 1945年3月10日、B-29爆撃機344機による爆撃は、まず40k屬留濕上に焼夷弾を投下し、東京の住民が逃げられないようにした後、
    東京市の隅田川沿岸地区を中心にその円の内側を塗りつぶすように
    40万発(1平方メートルあたり3発、総重量2000トン)もの
    油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾が投下され、
    逃げ惑う市民には超低空のB-29から機銃掃射が浴びせられた。
    この空襲により約10万人の犠牲者と約11万人の負傷者がでた。
    焼失家屋は約278千戸に及び、
    東京の3分の1以上の面積(40平方キロメートル)が焼失した。

    犠牲者のうち、0歳から9歳までが最も多い20%を占め、
    次いで10歳から19歳が18%と、20歳未満の子どもたちが38%を占めた。
    これは、国が当時、疎開を推奨していたものの
    家庭や経済的な事情で行けなかったり、
    中学生以上が勤労動員に駆り出されたりして、
    実際には多くの子どもたちが東京に残り、犠牲になったとみられています。(asahi-netより引用)

     幸い母の住んでいた荻窪は空襲に遭わずに済んだが、疎開から帰ると空襲で家族が亡くなり、縁者に引き取られた子供もいたようだ。

     今回調べてみて、あらためて東京大空襲のことの大きさに驚き、母が空襲に遭わずに済んだおかげで今のわたしがあることを実感した。
                   (広報なかとさ2月号)

    この記事を書くのにいろいろ調べてみて、認識を新たにすることが多々あった。
     ていうかほとんど理解してなかった・・・・だけか。
    記事を書いたあとになって母と一緒に疎開した母の弟の同級生が書いた本を手に入れた。
     「皇后陛下のビスケット」中田雅子 (クリエイティブ21)
    東京都立杉並第五国民学校の生徒であった母たち、学童疎開という特殊な体験を共にしたひとが書いたというので
    とても親近感を覚えた。

    疎開児童(写真も本から)
    前列一番右が著者、前列右から5番目が母の弟、そのうしろが母

    いわゆる手記とは違う、子どもの目から見た正直な感想+詩的センスのある文章でとても読みやすい。

         食べる
    屋根に干したかんそう芋が消えうせた
    残りごはんも毎晩なくなる と
    宿のおばさんが誰かと話している

    食事が月を追って乏しくなる
    兵隊さんは泥水を飲んで戦争してるんだと聞かされて
    食べ物の不足など誰も口に出さないが
    休み時間には
    みんなおすしやあんぱんの絵ばかり夢中で描いている

    ぜいたくだといくら自分を叱ってみても
    朝毎の凍った漬菜はおなかの中までつめたくなるし
    なすの煮たのは茶色くて野菜の死骸を見ているよう

    大きくなって
    自分の力で食べられるようになったら
    こんなものは絶対に食べないんだと思いながら
    食事の時間を待ちかねている   (P50 駅弁のうたより)


    戦争に行ったひとの話だけではなく、いろんな立場からの「戦争」を知りたいと思う。

                                  つづく

    海2




     

     


               

    まだまだ思い違い

    • 2014.10.29 Wednesday
    • 19:59
    あまり気にも留めずに過ごしていたことが実は思い違いだった、というはなし。

    その1 
    矢井賀の松尾神社のすぐ脇に幹が赤い木がある。
    赤松だろうと勝手に思っていて詳しく見たことがなかった。
    お祭りの日、よそから来たひとが「あれはなんの木ですか?」と聞いている。
    「ばくちの木だよ。」と地元のおじさん。
    そんな名前の木があったんだ、初めて聞いた。
    ばくちの木1ばくちの木2 よく視ると葉っぱが全然違うわ、赤松と
    それってこの地域の呼び名だよね、正式名はなんだろう?
    と調べてみると意外にも・・・・

    「博打(ばくち)の木」  バラ科、別名/毘蘭樹びらんじゅ
    ・・・・・・正式名だった。
    絶えず古い樹皮が長さ数10センチ程度のうろこ状にはがれ落ち、黄赤色の幹肌を現す。
    博打に負けて衣を剥がれるのに喩えたもの。葉から「ばくち水」と呼ばれる液を採り、沈咳・沈静の薬とする。
    岡山県では絶滅危惧種に指定されている。


    へ〜、実は珍しい木だった。

    その2
    読み方間違ってた!はいっぱいある。
    活字ではお馴染みだが声に出して読んだことが無かった漢字。
    種苗/しゅびょう     (たねなえだと思っていたわ)
    宿根/しゅっこん     (え、やどねじゃないの!)

    高知に来たばっかりの頃、「司牡丹」の看板はよく見ていたが、
    「佐川のつかさぼたん」ってボタン屋さんだと思っていたわたし。

    最近、「子供の頃習ったのと違っている!」を発見。
    ニンジンなどの緑黄色野菜に多く含まれているアレよ、アレ。
    調べてみると「カロテン」とある。
    え〜、たしか「カロチン」て習ったはずなのに。
    おそるおそる同年代の友人に聞いてみる。
    やっぱりそうだった。(よかった・・・わたしだけじゃない。)
    スペルを調べてみるとcaroteneどっちかというとカロティーンである。
    なーんだ、昔は発音悪かっただけじゃないか。

    まだまだいろいろ恥ずかしいことが出てきそう、
    ていうか出てきます。
      
    矢井賀の日の出矢井賀の日の出それでも矢井賀の日は昇る
     

    研修旅行

    • 2014.09.25 Thursday
    • 21:48
    矢井賀に来てから研修旅行に行く機会ができた。
    今回は「蜑の里」の為に役場が企画してバスを出してくれた。(人数が少ないので町内の他の地区の人たちも参加)
    昼食代だけで知らないところへ行けるチャンスである。
    矢井賀のような過疎の地域の活動を視察するのがほとんどだが、
    個人ではなかなか行かないようなところばかりなので結構おもしろい。
    いいお天気で小旅行日和。
    土佐町土佐町 

    目的の土佐町に到着。
    高知県には「土佐」と付く地名が多くて紛らわしいが
    わたしが住んでいるのは真ん中へんにある中土佐町。
    土佐町は北の県境(大川村・土佐町・本山町・大豊町とで嶺北れいほく地域と呼ばれているところ)にある。
    他に西土佐、土佐市、土佐山田、土佐山がある。

    9つの地域にあった学校が1つに統合され、
    その使われなくなった学校(8つもある)を地域の為に集落活動センターとして利用しはじめたケースだ。

    早明浦ダム1早明浦ダム1早明浦ダム2
    早明浦(さめうら)ダム
    夏の日照りの時に必ず名前が出る場所。
    西日本最大のダムに初めて来た。
    水はほとんど徳島と香川に行っている。
    (利水分配率:徳島48%、香川29%、愛媛19%、高知4%)
    土佐町はここの水を使っていないとか。早明浦ダム3

    1975年に完成、総事業費332億円
    わーすごい!さめうら湖きれい〜・・・・で終わってしまいそうだったが
    あとで調べたらこの人造湖を建設する為に、2町1村で385戸387世帯が水没の対象となり移住を強いられたという。
    特に大川村は主要集落の大部分が水没、過疎化が加速したという。
    多大な犠牲の基にできたダムらしい。


    ランチ ランチはさめうら荘にて
    おくら肉巻き魚 
       

    おくらの肉巻き、美味しかった                 魚はフレンチ風でおしゃれ

    研修自体はいまいちであったが、勉強になったなぁ。

    早明浦ダム4雲2
    秋の空は最高、雲ばかり撮ってしまう。
     

    戦争の記憶

    • 2014.07.22 Tuesday
    • 20:49
    ひょうたん ひょうたん実がついた、かわいい!

    先日広報の取材で大野見の老人ホームを訪ねた。
    大正11年生まれの方に戦争の体験談を伺うためである。
    毎年夏には特集を組んで体験談を載せているのだが、
    なにしろ皆さんご高齢、早く行って話を聞かなくては!とあせって取材に。
    編集委員5人がいままでに聞いた話を元に、あれこれ聞きだそうと質問するのだが・・・・

    「何がいちばんたいへんでしたか」
    「戦地ではどういう生活をしてましたか」
    「とかげとか、食べました?」
    「終戦を知ったときはどう思いましたか」等々


    あれ、ほとんど話してくれない。
    「軍艦那智の信号兵だったから・・・」
    「忙しくてそれどころでは・・・」

    期待していた話はほとんど聞けず一同拍子抜け感が。
    ちょっと遅かったような。

    図書館に寄って彼が前に書いた文章を探す。
      
      「地獄の彷徨」 吉門記清  より抜粋
    昭和14年6月1日 私は(中略 )佐世保第一海兵団に入団、海軍四等水兵となる。
    新兵教育も終わり、三等水兵に進級。横須賀市泊の海軍航海学校へ第一期生として入校する。
    ここでは航海術、手旗、ラッパ、モールス信号、艦隊運動程式、電磁気学など海軍の全般常識を毎日詰め込まれた。

    十六年、連合艦隊「那智」乗組員となる。

    十七年、呉第六特別陸戦隊として、ソロモン海域の島々を点々と回る。
    十八年八月、ムンダ最後の引き揚げだった。
    ジャングルは焦土と化し、緑は見るかげもない。
    ラバウルに上陸、第八八警備隊として再編される。
    そしてニューライルランド島、ガビエンビスマーク諸島、ニューギニア島を回る。
    ここも激戦灼熱の下、爆撃、艦砲射撃で焦土と化し食う物もなく、
    トカゲ・カタツムリ・貝・草木の実などを食う。
    毎日餓死する者が多く、部隊は解散して行動するようになる。
    餓死する者は皆、耳、目、口、鼻などにウジが湧く。
    そのウジを取り除く気力がなくなれば三日で死ぬ。
    私も膝より下が熱帯潰瘍になり、立ったまま小便ができなくなる。
    それに一時間に一回は傷口のウジやヒルを取らなければならない。
    そうした毎日の行動中餓死寸前に現地人の捕虜となる。
    自殺者もいたが、多くの者は戦死ではなく、餓死である。
    (中略)
    小隊長と二人で死ぬことを考え、捕まって四日目に巻煙草を各自二十五本ずつ水に浸して飲んだが、
    五時間苦しむだけで正気にかえる。
    次の晩とうとう首を吊る。これも首を吊る紐はなく、防暑服のバンドに千人針をつなぐ。  
         ( *せんにんばり【千人針】とは。意味や解説。一枚の布に、千人の女性が赤糸で一針ずつ 縫い、千個の縫い玉を作った布。出征兵        士の武運長久を祈って贈った。日清・日露戦争 のころ始まり、日中戦争以後盛んになった。千人結び)
    この千人針が朽ちて二人とも現地人の便所に落ちる。
    その後ニューギニア収容所に入り、次にオーストラリア収容所に送られる。
    二十一年三月三日、シドニー港出港。四月四日浦賀入港。八日大野見に帰る。
    この間十九年より戸籍には朱の斜線が入り、戦死となっていた。弟妹も二人生まれていた。

    (平成元年印刷)


    「え〜、ほんとに同じひとですか?」ほかの編集委員さんに思わず聞いてしまった。
    実際の戦闘の経験はないにしろかなりの体験をされた方のようである。
    「戦争はよくないことだと思いますか?」の質問に、
    「ひとをいじめたらかならずかえってくる」とさいごにぼそっと言われた。

    ほんとうに辛かった過去のことは忘れないと生きていけないかもしれない。
    「星がきれいだった・・・とか楽観的なひとのほうが長生きできるらしい。」とも聞いた。

    でも戦争を知らない私達は、そういった話をちゃんと聞いて知っておかなければ。
    わたしが小さい頃、上野に行くと(必ずといっていいほど)軍服を着た腕や脚のないひとが座ってアコーデオンを弾いていた。
    「もうずっと前に戦争は終わっているのになんで?」と子ども心に思ったものだ。
    上野=それ  くらいわたしの記憶に焼きついている。
    (今思えば、あれは在日の韓国の方で恩給がもらえないからああするより仕方なかったのかもしれない。)

    わたしの母もよく疎開中の話をしてくれた。
    今度ちゃんと聞いて書き留めておかなくっちゃ。


    スイレン














     

    〜まだとりかえしのつくこと〜「砂防ダムの話」その4

    • 2014.07.14 Monday
    • 21:29
    パセリ1

    その後要望書はどうなっただろう。
    そろそろ確認しなくては・・・。
    わたしが直接課長に電話をすれば早いのであるが、
    友人曰く「町議は町民の代表なんだから個人で動くより効果的、
    もっと町議さんに動いてもらったら?」
    なるほどそうである。
    そもそも電話をかけるのが苦手なわたし。
    県の担当との話し合いのときにきてもらった町議さんにメールで確認をお願いする。
    (メールってほんと便利!)

    数日後、矢井賀の総代さんから電話。
    「明日建設課の課長さんがうちに来るんですが・・・。」
    わー、また「総意」の件だわ〜。
    総代といえば、投票で選ばれた言うなれば矢井賀の村長さんである。
    影響力は大きい。
    彼のひとことでポシャる可能性も大。
    ちゃんと説明しておかないと・・・とあせる。
    「動いたのが区長会だろうが宮朝子個人だろうが、総意であることには違いない。
    141名の署名は矢井賀のほぼ90%の人たちのものです。」というつもりです、と彼。
    *(前に書いた世帯数は隣の小矢井賀も入っていたので、実際はもっと少ないことが判明)
    よかった!!話のわかる人で、説明しなくてもわかってくれていた。

    翌日「総代がそう言うなら」と課長も納得。
    要望書を県に出すという。
    「総意」問題解決!万歳!

    次は県だ。



     

    〜まだとりかえしのつくこと〜「砂防ダムの話」その3

    • 2014.07.02 Wednesday
    • 21:15
    リンドウ 

     「肩書き」なんてわたしにはずっと縁のなかったもの。
    要望書の代表者が個人名であることが問題になるなんて思ってもみなかったことである。
    わたしも最初は漁協矢井賀支部〇〇、部落総代〇〇、〇〇会長等を代表者名に入れるつもりだったのだが、
    「個人的には賛同するけれど、団体としては立場上無理」などと言われ、
    「社会的立場」というものについて考えさせられることになった。
     
    わたしも一応、地元の地域おこしの為にたちあがった「蜑の里」の副会長をしているので
    会議のときに協力を求めたのだが、
    役場の担当に「蜑の里は役場とNPOが役員になっている団体だからそれは無理」と簡単に却下された。
    地域のための要望で蜑の里の活動の一環ともなりえることなのに
    (矢井賀川が復活すれば地域の特産となるものが持続的に獲れるようになり、特産品・商品開発等蜑の里の活動に繋がるはず)
    なんで駄目なのか納得がいかない。

     個人の意見を吸い上げてまとめるのが組織のはず、民主主義のはずなのだが
    現実には「立場上」誰も何も言わないし、先頭切って動かないし、責任も取りたくない。
    日本の社会の縮図を見たようで・・・・めげるなぁ・・・・。

    「お上には決して逆らわない」「いつかだれかがなんとかしてくれるだろう」「わたしには直接関係ないし・・・」  みたいな

     地域の組織が動かないからこそ、こんな形で個人的に動いているわけなのだが
    そのあたりを行政は全く理解していないようだ。
    「行政相談の日」とかそれらしいものはあるが、なんでも「個人的」にしか言えないし、「個人的」だからまともに扱ってくれないであろう。


     行政側から「総意」という言葉を何度も聞いた。
    「総意」ってなに?
    組織の代表が言ったら総意で、肩書きのないひとが言ったら総意じゃないの?
    「個人」141名の意見は総意にならないの?

     住民の総意なしに建設したのに(住民の要望はなかったし、過去に土砂災害も無かった)
    「困っているからなんとかしてほしい」という要望は総意でないといけない、というのはおかしな話である。

    結局は肩書きなしの個人名(染織家 宮朝子、漁師 〇〇、・・・)で提出した。

    出すべきものは出した。あとは働きかけしだい。
    うやむやにされないために、要望書を出した事実をできるだけ表に出したいと思う。
    ご協力お願いします!

    砂防ダムで困っている他の地域のひとたちの為にも、
    矢井賀川がモデルケースとなるような新しい試みをしてもらいたい。

    ひょうたんの花  ひょうたんの花


     

    〜まだとりかえしのつくこと〜「砂防ダムの話」その2

    • 2014.06.24 Tuesday
    • 20:47
    家の前         
     2013年10月 署名集め
    下の要望書に賛同してくれるひとの署名を集める
    要望書薄くて見えないかな・・・
    矢井賀は過疎の集落で160世帯あまり。
    どうやって署名活動をするかが最初の課題。
    回覧で回してもらうことも考えたが、手続きがめんどうなので戸別訪問に。
    近所は私ひとりで回り、あとは漁師さんと地域の顔役の方の二人に協力を頼む。
    三人で1軒ずつ回った。
    迷路のような矢井賀の集落、知らない家もまだまだいっぱいある。
    半日かけて終了!署名をお願いした方全員が協力してくれた。
    もっと早くにやっていれば・・・、の声も聞かれた。
    10月の終わりには141名の署名を集めることができた。
    (160世帯のここで141名はすごい数字なんです。)

    2013年11月 町長に提出
     広報の編集会議があって役場に行く。
    会議をする部屋の手前は町長室、見ると丁度その時町長ひとり。
    チャンスとばかり、いざ町長室へ。
    説明を少しして、直接手渡しすることができた。
    「この署名を無駄にしないよう、調べてみます。」との返事。

     2014年3月 矢井賀のお花見イベントに来た町長に催促
    「あの件、どうなってますか?」

     2014年4月 建設課の課長が来る
    県の担当者と地元の人たちとの話し合いの場を設定して欲しいとのこと。

    *一歩前進!町長も課長もこの要望が本当に部落の総意なのか、という点を気にしている様子。

     2014年5月16日 漁師さん数人を中心に、部落の総代さん、「矢井賀をよくする会」の会長さんたちと県の土木(砂防ダム課)2名、建設課の担当とで話をする。

    今のところダムに溜まっている土砂の除去(浜に持っていく)かダムのスリット化しか具体的な策がないという。
    スリット化するとしてもどういう影響があるかわからない・・・等々改良のデメリットを強調された。

    矢井賀川にダムができた経緯を地元のひとに聞いてみた。
    過去に洪水などの災害もなく、地域の要望があったわけでもない。
    どうやらそのころ矢井賀にあった土建やさんの仕事取りの為に作られたようだ。

    まだ事例もほとんどなく、これからの課題である砂防ダム問題。
    地域おこしの為にもモデルケースとして実験的に取り組んで欲しい。
    矢井賀川は上流からの距離も短い小さな川、
    費用もそれほどかからず結果もわかりやすいはず。

    会のあと、建設課の課長にこのあとどうしたらいいのか聞いてみた。
    「今から県にこの要望書を出しますが、代表者が個人名ではねぇ・・・、
    肩書きを付けてここだけ書き直してもらえますか?」

    「え、肩書きですか?」      

    次なる課題が・・・・・・        つづく

    大木


                                   

    〜まだとりかえしのつくこと〜「砂防ダムの話」その1

    • 2014.06.20 Friday
    • 20:57
    ここ矢井賀に来て13年になるが、
    家の前の川はふだんこんな・・・ 矢井賀川(水なし) 全く水が無い。
    大雨の時だけ川らしくなる。
    矢井賀川(水あり2) 矢井賀川(水あり1)
    なんでだろう、とずっと思っていたのだが、
    その原因が奥の砂防ダムにある、ということが最近わかってきた。
    2012年の暮れに中土佐町の広報の取材で(わたしは編集委員の一人)
    矢井賀の漁師さんにお話を聞く機会があった。広報
    そのお話の中で、昔漁師町として栄えた矢井賀で
    魚が獲れなくなって衰退していった大きな原因の1つが砂防ダムにある、
    とはっきり断言されたことが強く印象に残り、なんとかならないものかと調べてみることにした。
    砂防ダム1 砂防ダム2
    これが矢井賀川にある砂防ダム(メインに2基、さらに上流にも2基くらいあるらしい)

    砂防ダムは本来土石流災害防止の為(矢井賀の場合もこれ)、森林育成等の目的で建設されたのですが、
    今その悪影響のほうが全国的に問題になっているようです。

    1.海への影響
     〆祝疋瀬爐川から海への土砂供給を止めてしまうため、海岸線が侵食されてしまう。
       (砂浜が減り、海ガメの産卵場所がなくなる、高波の被害等)
     ∪遒ら海への養分やミネラルの供給が妨げられ、
       海が痩せて海草・魚・貝などの生育が妨げられて「磯焼け」状態になる。
    2.骨材(建設用の砂利)の不足
     本来は川が山から運んで来た砂利を利用してきたが、川から取れなくなった現在、
     山を崩したり海底を掘ったりして環境を害する問題となっている。
    (矢井賀の両隣では海底を掘って砂利を取っているので砂の減少が更に進んでいる。)
           *渓流保護ネットワーク 砂防ダムを考える より抜粋

    砂防ダムを改良した事例はないかと調べてみて、出てきたのが砂防のスリット化や近自然工法。
    はじめは「磯焼け」と砂防ダムの因果関係を証明するのが難しいと思われましたが、業界では周知の事実のよう。
    それなら、困っている現状を訴えさえすればなんとかできるかも!と動きだすことに。
    まずは町議さんに相談。
    「難しいですね〜。」の一言。

    よ〜し、町長に直訴だ!
    要望書と署名用紙を作り、署名を集めることにする。
    人間はとりかえしのつかない事をいっぱいしてきたが、これはまだとりかえせるはず。
    がんばるぞ〜!!

         つづく



     

    社長さま

    • 2014.02.03 Monday
    • 19:52
    海

    去年あたりからわたしのホームページを見て、
    メールはもちろんのこと、セールスのデンワがいっぱいかかってくるようになった。
    アクセスを増やすためにどうたら、広告を載せてこうこうしたら・・・・と、とにかくうるさい。
    メールは削除すれば済むのだが、デンワは困る。
    このまえは「社長さまいらっしゃいますか?」ときた。
    あのホームページをみれば、うちが極小企業でそんなものが存在するようなところではないのが一目瞭然。
    通常は作業員、あるときは販売員、またあるときは会計兼営業担当とマルチなわたしは、
    社長さんでないこともないが、あんまりあれではないか。
    〇〇先生というのもしらじらしい。
    教室の生徒さん以外に先生と呼ばれる筋合いはない。
    心を載せた言葉にのみ、人は動かされるもの。
    お仕事とはいえ、営業トークは嫌いである。

    「原宿に事務所があるんですけど・・・。」というのもあって、ちょっとひっかかった。
    原宿がなんだ、そう言えば「すごい!」と思われるとでもいうのか。
    高知県民を馬鹿にしているとしか思えない。
    都心のマンションの一室を事務所にしているいかがわしい会社がいっぱいあるのをわたしは知っているぞ。

    ますますデンワに出たくないわたし。
    用件は留守電にメッセージを入れるか、携帯にデンワかメールでお願いします。
    実をいうと留守電の文句も一生懸命録音したのに、かなりおかしい。
    わたしらしくていいんじゃない、と友人。
    それもそうだわ、とすぐに納得。

    ついでに言わせてもらえば、
    お店に入って、機械のような独特のトーンの「いらっしゃいませぇ!いかがですか!」
    もやめてほしいものである。

    「新しいB.F.」
    このごろ黒兵衛を見なくなった。
    代わりに黄色っぽい猫が出入りしているのだが、(黄助と呼んでいる)
    あちこちにマーキングされて臭くて困っている。
    ごみはあさるけど、黒兵衛のほうがよかったかも。
    I miss you!

    岩合さんの「世界猫歩き」を見ていたら
    パセリにそっくりな猫がでてきた。
    そこへパセリが帰ってきて、TVに注目。
    TVに前脚をかけた。
    はじめてTVに反応したパセリTVを見るパセリ


    矢井賀






     

    リベンジ完了

    • 2014.01.09 Thursday
    • 21:13
    年末あんまり寒いので大晦日の激安チケットで千葉の実家に避難。
    まあ、何ヶ月も前に予約していたのだがこれが大正解。
    機密性ゼロの障子の世界から一気にマンションへ。
    勝田台の夕焼け しかも窓から毎日この夕焼け
    以前はこの向こうに愛する富士山も見えていたが
    後からできた建物のせいで今は見えない・・・・残念。

    とにかく、
    ほとんど外出もせずぬくぬくと暖かい正月を母と過ごして帰途に。
    前回果たせず、今回来る時は窓側ではなくて撮れなかった
    これ

    富士山1 
    富士山2 わ〜い!
    わたしが窓にへばりついているのを見て、前の席の人が
    「あれって富士山ですか?」と聞いて来た。
    「はい、今日はすごくよく見えますね。」

    大満足。
    でもこころなしか真ん中がひどく陥没しているような。昔からこんなだったかしら?
    テレビで、自然崩落が進んでいて形が少しずつ変わってきていると言っていたのが気になった。

    四国山脈四国山脈もなかなかの眺め

    正月中、母といろんな話をしたが
    ほとんどは昔のこと。
    年寄り=昔話 は常識だが、その理由が少しわかったような気がした。
    年を取るにつれ外からの刺激や新しい情報が入らなくなって、
    (必要としなくなるしメモリーカードもいっぱい)
    たくさんの思い出(自分の歴史)のなかで残りの人生を静かに生きる、ということなのだろうか。

    「あのとき〇〇がこう言った。」という記憶は誰しもあるが、
    考えてみると何十年(母の場合は80年)もの人生の中で
    それはほんの数秒のでき事にもかかわらず、死ぬまで覚えているわけである。
    ある意味おそろしいこと。
    うかつなことは言えない。
    とくに感情的になってぼろっとこぼれたきつい一言は
    相手のこころに突き刺ささる。
    大抵の場合、言った当人は覚えていない。
    言われた方はその記憶から「一言」を削除できずに一生を終える。
    「あ、あれはこういうことだったのか。」と
    その「一言」に新たな解釈を付けられれば、削除できるのかもしれない。

    子どもの頃の記憶は断片的なシ−ンでしかなかったが、
    母の話からそれに状況説明が加わって、断片が少しづつ繋がっていく。
    祖父母の歴史から父母の歴史・・・・それが今のわたしに繋がっていて、
    そのわたしも自分のいままでを思い起こし、解釈をつけて処理していく時期になった。

    そういえば実家で探し物をしていて、
    祖母の通知表を発見。
    なんと大正5年のものである。
    3段階で甲・乙・丙
    プライバシーの侵害ではあるが、歴史的資料としてはおもしろい。
    ちなみに算数がずっと丙だった。

    やっぱり

    わたしのは処分しておこうっと。
    将来孫に笑われないように。
    土佐市の夕焼け帰り道、土佐市の夕焼けも最高!





     

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